ヨリソウ
スマホ、のなかでも世界で一番有名なのはapple社のiphone、なんじゃないかなと私は思います。
私自身はあまり電子機に詳しくなく、パソコンの授業は苦手です。ショートカットキーとか間違えて
全然違うことする、とか日常茶飯事です。
なぜ私がiphoneの話をしているかというと、近年発売されている
製品のカメラには 「live機能」が搭載されているかと思います。
シャッターを切った1秒ほど前の時間を短い動画として撮り、写真を撮る前何が起きていたか見ることができます。
私たちが写真を見たとき、普通はその切り取られた一瞬しかわからないですよね?
何が起きているのか、どうしてその表情をしているのか、私たちにはわからない。
この写真の中で儚げに映るあの少年は、何を思ってシャッターを切る前にこの表情をしたのか。
世界にはわからないものだらけ。知らないことが溢れてる。
そんな時、私が雑誌の中で見つけたのはとある写真家さんだった。
フランスの写真家、マリー・リエス。彼女のとった写真集『A letter to Jean Lin(ジャン=ランへの手紙)』は点字と活字のテキストを掛け合わせている。
と、ここまで聞くと、皆さんはマリーが盲目、または視覚障害者だと思うのでは?
実際に、「目が見えない人 写真家」と検索すると、目が見えなくても写真を撮る、という活動を行なっている人は多くいる。
でも彼女の場合、「撮るひと」が盲目なのではなく
「撮られる人」が盲目だったのです。
おそらく、撮影した写真を確認できないからかな、
人はあまり、目の見えない人を被写体にしようとはしません。
自分が切り取りたかったその瞬間、表情、空間。「見て!!」って一緒に共有できないからかな。
一番最初に私は「写真の中では、その一瞬の間に何が起きたかわからない」と言いました。
でもそれは被写体も一緒ですよね?
先ほど見せたこの儚げな表情をした少年。
彼はフランスの国立盲学校の生徒さんだそうです。
Youthさんの中で、さっきこの写真を見た時
彼が盲目であるかもしれない、と予測できた人はいますか?
いるかも、、いたら、すごいです!
彼は私の中で、儚げにいる一人の少年として、記憶のどこかに刻まれます。
でも彼は、その写真を見ることができない。どんな表情で、どんな雰囲気で、何色の世界に自分が広がっているのか。
私の目は、他の中学生に比べたら比較的悪い方ではあります。
でも視える。私の目はちゃんと視えます。
見えない、って怖くないですか?
私は怖いです。人は知らないもの・ことに対して恐怖心を覚えます。
私にとって「見えない」は未知です。
そして、今「ある」ものが突然なくなる、という「恐怖」もあります。
でも、生まれた時から目の見えない人はどんな世界を見ているんだろう。
そうやって、「もしも」わたしがそうだったらって想像して、少しでも自分と違う人によりそうということ。
私はそういうことが「平和」や「共存」への一歩だと思います。
はき違えてはいけないのが、「sympathy(シンパシー)」と「empathy(エンパシー)」です。
どちらも共感と表現されやすいですが、日本語でも、たまにその違いが難しいのが
「共感」と「同情」です。
寄り添うことは決して同情ではありません。
私の中で同情とは、その人の悲しい経験やつらい記憶に「同じような情をもつ」。
だけであって、自分の想像上で勝手にかわいそうだとか、つらそうだとかと決めつけること。
逆に共感という物は「共に感情を共有する」という意味だと思います。
それは、自分が経験しているからこそ、感情を共有できるのかもしれないです。
この二つの意味を踏まえた後。「寄り添う」は「同情」でも「共感」でもない物だといえます。
私は自分と違う人に共感するのは難しいと考えます。だって、私は同じ経験をしていないから、同じ感情を共有することは、、不可能に近いです。
ですが、同情も違います。日本ドラマの有名な台詞に「同情するなら金をくれ」という台詞があるように、自分と違うからといって、それが間違っているかのように、かわいそうだと、哀れの目を向けるのは相手にも失礼だと考えます。
そこで私がもっともぴったり当てはまると思ったのが「寄り添う」です。
私は共感することも、同情をすることも出来ないけれど、同情とはちがう、限りなく共感に近く、その人の感情に「寄り添う努力」をすること。
目が見えない人がいたら、目が見えないひとに寄り添うことで、自分との違いや新しい世界が見つかると言えます。
それが、ちいさな違いでも、相手に寄り添える、、人間になれるように、半人前の半人前ではありますが、、少しずつそうなれるようにしていきたいですね笑
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